患者さんが主役

(/o\)虫

セロトニン活性療法への大事な想いを書きます。

自我なんてどうでもいいんだよ。

自分なんてとっとと捨てて、目の前の患者に全て捧げる、そんな気持ちで私はいつもベッドの前に立っている。

でも実はセロトニン調律師になった初めの頃はこの気持ちは1ミリも無かった。私はあくまでもセロトニン調律師を「やらねば」という想いだった。

ところが次々に患者が突きつけてくる課題、患者本人の様子や性格、放つ言葉の全てが私の胸を貫いて、気づいたら常に患者に向き合うようになっていた。

患者に向き合うと自分が見えてくる。自分の弱さやクズな部分、未熟さや劣等感、学の無さ、うぬぼれ、怠惰、怠慢、苛立ち…数えきれないほどのまるでカルマのような膿が毎日毎分毎秒吹き出る。

吹き出ても受け止めるのは自分しかいない。

患者は何も悪くない。私の膿で私は苦しかった。醜かった。クズだった。

治療者という神々しい肩書からは欠けはなれた人間であることを自分で認めてからやっと成長が始まった。

自分の毒にまみれながらも師に喰らい着いて学び咀嚼していくうちに成長していた。

そして、患者が私の心を見て話してくれるようになる。その瞬間が何よりも嬉しかった。

セロトニン活性療法を扱える人間がセロトニン調律師なわけだけど、どうもこのセロトニン活性療法を使いこなせているかどうかがあやふやなセロトニン調律師がいるように感じている。

もしも使いこなせていたら、患者からの信頼と信用を得られることでその者の院は潤い、治療者と患者が互いにファンになり、施術のたびに感動するような日々を送っているはず。

その感動はその治療者のありとあらゆる言動からセロトニン活性療法を通じて何らかの形で溢れるものだよ、と私は思っている。

私なりにここまでセロトニン活性療法に対して明確な答えが出ていて、患者さんともセロトニンを介してそれはまさにシナプス結合のように通じ逢えているなら…もう何も恐れずに、自分の頭の中をはっきり外に出してみてもいいよね。

世間一般の色んな経験をした人ならわかっていると思うけど、セミナー代を払っても技術を買って自分の物にすることは決してできない。

技術は、学び得るものだから。

技術とは、それを創った人をとことん見習い真似るか、できる限り自分の体に触れてもらいその未熟な肉体に記憶させるしか、本当の意味で自身に落とし込む方法はないと感じている。

なので私は時間がある限り滝本代表からセロトニン活性療法を受けている。

とても贅沢だと思う。毎回感謝の想いでいっぱいになる。

最高峰の技術を身体に記憶させるチャンスを頂けると同時に、他愛ない話をしながらも神経を研ぎ澄まして施術に挑んでいる。

ただ、普段あまり多くを語らない代表はまるでセロトニン活性療法に全てを託しているかのようで、時々切なくなる。

確かかつて言われていたフレーズ、セロトニン活性療法はシンプルで奥が深い…いやいや、もうそんな野暮ったいフレーズは止めにしちゃおう。

セロトニン活性療法は人生の本質を知ろうとしない人間には使いこなせない技術。

そして誰かを死ぬほど救いたいと思う人間にしか使いこなせない技術。

人間の本質を見抜く技術。

セロトニン活性療法を受けた患者さんはだんだんと自分の本質に気付き始める。

人生をどう生きようか、自分の闇にどう立ち向かおうか、それを共有させてもらえるのは、セロトニン活性療法に真摯に向き合い努力している者のみ。

そしてこれから私は滝本裕之が創ったセロトニン活性療法を日本、世界へと一緒に広めて行ける仲間がほしい、と想いを馳せている。

これからもひろカイロ整体院に居させてもらえる限りこの溢れる想いを書いていきます。よろしくお願いします。